フェルガナ盆地は三方が天山山系とパミール・アライ山系の山脈で囲まれている広い盆地である。
西から東へ350km以上に広がり、幅は150kmある。中央アジアで2番目に大きい川であるシルダリヤ川がフェルガナ盆地に沿って流れている。この川に平行して、南にフェルガナ水路が流れている。

フェルガナは独立した国家として最古の中国古典に出てくる。石器時代に既に人口集中地域であり、青銅器時代には、牧畜部族と農耕部族の生活様式が異なる部族が住んでいた。紀元前からフェルガナ盆地には大小70の町があったといわれ、その一部は現在も栄えるフジャント、マルギラン、コーカンド、アンディジャン、ナマンガン、リシタンなどである。

シルクロードのルートの一つがフェルガナ盆地を通っていたため、古代からフェルガナ盆地の装飾美術と工芸は中国、インド、ペルシアの文化的影響を受けていた。考古学的発掘によりフェルガナ盆地には仏教寺院も、ネストリウス派の教会もあったということが明らかになっている。

この有名な隊商ルートで自由貿易が行われ、隊商宿、倉庫、商品を作るための作業室、舗装道路さえあったという。

 

フェルガナの見どころ

フェルガナ
フェルガナ

州都フェルガナは、19世紀後半に旧コーカンド汗国の領域を管理するための戦略上重要な都市で行政の中心地であった。
コーカンド汗国は1876年2月19日に皇帝アレクサンドル2世の勅令によって廃止された。汗国の領域はフェルガナ州になり、現在のフェルガナ市は、マルギランの近くに新しいロシアの街を建設する計画でノーヴィー(新しい)マルギランと名付けられた。その後、1924年までフェルガナ州の最初の総督であったスコベレフの名前も持っていた。
現在は近代都市で、CIS諸国からの飛行機を受け入れる国際空港もある。緑の町とも呼ばれ運河の水路が走り、豊かな緑を育む町である。

クワ
クワ

フェルガナ盆地の古い町の一つである。古代クワの発掘により紀元前3世紀の建造物の遺跡が発見された。考古学者がそこで6~7世紀の仏教寺院を発掘し研究した。最初の発掘によりクワは世界の主要な手工業中心地であったことが確定された。ガラス製造の発祥地でもあるかもしれないと考えられている。ヨーロッパでアリフラガヌスと言う名前で知られていた中世の有名な天文学者アル・フェルガニーの大きな像が建つ公園がある。そこに古代の寺院の遺跡があり、一部復元された城壁もある。

マルギラン
マルギラン1
マルギラン2
マルギラン3

マルギランは養蚕業の伝統技術を守る都市であり、9世紀までシルクロードにおける最大の都市だった。伝説によるとマルギランの歴史は、アレキサンダー大王の時代に遡り虹色模様のハン・アトラスとプリント模様の絹織物で有名である。
商人達はシルクロードを通じてバグダッド、カシガル、コラサン、エジプト、ギリシャへマルギランの絹を輸出した。
マルギランは何世紀にも渡り中央アジアの絹の首都と呼ばれていた。

1598年から1876年までの約300年に渡りマルギランはコーカンド汗国の一部であった。中央アジアがロシア帝国の一部となった後、1875年9月8日マルギランは地方都市として、綿や絹の卸売市場になった。今でもソ連時代に失われてしまった技術を復元し、一貫して手作業でシルク製品を作る工場などがある。
桑の葉で蚕を育て、繭から生糸を取る。この生糸からマルギラン・アトラスと呼ばれる矢絣模様の布地は、この町の特産品である。

色々な建物は歴史的建造物として修復し保存されており、博物館や職業訓練所として見学することもできる。
18世紀のピル・シディックやホジャ・マギズ廟、19世紀のサイド・アフマドホジャ・マドラサ、19世紀末のトロン・バザール・モスクなど、観光の見どころは多い。

リシタン
リシタン

フェルガナから50km東にリシタンという小さい町がある。
リシタンは紀元9世紀から陶器で有名である。1100年に渡って陶芸家が代々現地の赤色粘土と釉薬、鉱物性染料と山地植物の灰を使った陶芸の秘密を伝えている。イシコルという釉薬(青緑色と群青色)の模様で飾られたリャガンという大皿、ショコサという深皿、水入れなどはリシタンの陶芸家に名声をもたらし、世界の多くの博物館と個人コレクションで人気である。
また、ここに特記したいのは、リシタンの陶器工房に併設してボランティアで運営される日本語学校NORIKO学級がある。ここでは日本に興味を持つ子供達が自由に学んでいる。

コーカンド
コーカンド1
コーカンド2
コーカンド3

コーカンド汗国が築かれたのは1732年。中央アジアでブハラに次ぐイスラームの宗教的中心地であった。
革命前に中央アジアに存在した3つの国家のひとつ。ロシアの保護領としてソ連時代まで生き残ったブハラ汗国とヒヴァ汗国とは違い、コーカンド汗国はロシア軍に征服された。当時、ミング王朝がコーカンド汗国を統治した。
汗国が廃止され、1876年に帝国ロシアに吸収されたと同時に1万人を超える市民が殺害され、宗教的建物も多くが破壊された。

コーカンドにあるフダヤル・ハン宮殿は、ロシアの脅威が迫る中1863年から10年かけて建設され、フェルガナ盆地全体の象徴となった。
正面は多彩なタイルのモザイクで飾られ、広い傾斜路が表玄関に通じている。正門は木彫りの傑作で、門に隣接するドーム型の部屋はガンチ模様で飾られている。王座の間は宮殿の最も美しい部屋であり、それを装飾するために多種多様な伝統工芸が利用され、天井は彫刻を施した金色の模様がある14の格間(ハブザク)で飾られている。

1876年にロシア帝国の軍隊がコーカンドに入り、この宮殿を占領した。
コーカンド汗国が陥落し、宮殿はロシアの守備隊の宿泊場所になった。王座の間はロシア正教の教会として使用され、男子校と女子校が開かれた。
十月革命後、そこに貧民・農民同盟の理事会(コシチ理事会)が置かれていた。1924年に宮殿でフェルガナ州の農業博覧会が開かれ、1925年にはその博覧会を基にして博物館を作ることが決定された。第二次世界大戦時にはそこに陸軍病院があった。
フダヤル・ハン宮殿は、コーカンドで起きた重要な事件の証人のようである。現在は郷土史博物館として文化、歴史資料などが展示されている。
コーカンドには日本人墓地があり420名の日本人兵が眠っている。

ナマンガン
ナマンガン1
ナマンガン2

ウズベクの有名な詩人マシラブの生まれ故郷であるナマンガンは、フェルガナ盆地の都市の中で特別な位置に置かれている。
ナマンガンの近くにアフシケントという古代都市の遺跡がある。中世の地理学者によるとアフシケントはフェルガナ盆地最大の経済的に発展した中心地であり、その首都と考えられていたそうである。考古学者は宮殿、民家、隊商宿、手工業の作業場、風呂屋などの遺跡を発見した。また発掘によって色々な金属品、絵模様が描いてある食器、その都市で鋳造された硬貨が発見された。
アフシケントは13世紀にチンギスハンの軍隊により破壊されたが、ティムールの子孫の統治時代にはそこにまた大きい町ができた。

1875年にナマンガンがロシアの一部になったと同時に新都市の建設が始まり、要塞によって旧市街から分離されていた。その要塞から街路が放射状に延びている。
ナマンガンの歴史的建造物は、主に18世紀と19世紀の変わり目で建設されたもので、大きさと装飾の質で優れている。
フェルガナ盆地の男性は帯をして、そこにナイフを差す習慣があったため装飾ナイフが作られた。ナマンガン州のチュスト地区は装飾ナイフの生産で有名である。

アンディジャン
アンディジャン1
アンディジャン2

ナマンガンの近くにアンディジャン市がある。アンディジャンは、インドを征服してムガール帝国を創始した司令官バブールの生まれ故郷である。バブールの子孫であったシャー・ジャハンが、インドにある世界で最も美しい宮殿、タージマハルを建てた。
アンディジャンは古い都市の一つで、現代のアンディジャンから30km離れた所にエルシという古代都市の遺跡がある。エルシはダヴァンという古代の国の首都であった。
この国は足の速い馬で有名で、その馬を宝物のように扱って中国皇帝まで届けていた。
9~10世紀にアンディジャンはサーマーン朝の領土になり、1902年には地震による被害を受けたが、ほぼ完全に再建された。昔の建造物としてはジャミ・マドラサが残っている。またフルマンチリク広場も観光客の興味を引く。
そこに鍛金や刺繍の職人と画家の工房があり、お土産が買える。

アンディジャン州は聖地で有名である。その中でテシク・タシと呼ばれる巨石がある。その基底部は巨人が両足を広げて立っているように見える。その他の聖地として、イマーム・オタ、トゥズリク・マサル、オク・グル、シルマンブラク泉があげられる。
ティムール王朝の時代がアンディジャンにとって最盛期であった。その都市は何世紀にも渡ってフェルガナ盆地への関門であった。
現在のアンディジャンはウズベキスタン最大の産業中心地の一つであり、UZ-DAEWOOと言う自動車工場が建設された。Tico、Damas、Matiz、Nexia、Lacettiという自動車のモデルがCIS(独立国家共同体)で急速に人気を得た。
また、アンディジャン市には、日本人墓地があることも知られている。

シャヒマルダン
シャヒマルダン

キルギス国内あるウズベキスタンの飛び地に位置するシャヒマルダン。
行くには許可証が必要で、観光にお勧めとは言えない。しかし、そこは空気がいつも爽やかで、川と山間の湖があり自然愛好家の注目を集めている保養地である。海抜1,500kmの高さにあり夏は避暑地として人気がある。